ケサランパサラン


 そいつは不思議なものの様に僕の目には映った。白くてふわふわした毛玉の様なもの。小さくて手の平の上で転げ回る不思議なもの。人知れず、どのようにかして仲間を増やすもの。何を食べているのかは誰も知らない、どういった行動を行うかも全くわからない、全てが謎に包まれている生き物の様な奴。
(おなかがすかないのかな?)
(喉は乾かないのかな?)
(一日中じっとしてて、退屈しないかな?)
子どもながらにそんな事を考えていた様な記憶が、十数年経った今でも残っている。
当時はだまテレビゲームやファミコンなんて気の効いたものはなく、子ども達は自分で自分の好奇心を満たすものを求めては満足するという生活を送っていた。
―純真な子ども―そういった形容があてはまるかも知れない。しかし、僕自身がそうだったかどうかは、肯定するのははばかれるし、否定する程捨ててはいないために、何とも言い様がない。
とにかくそいつは不思議な奴だった。そいつは初めて知ったのは、おそらく何かのテレビ番組だったと思う。どうやら友達も皆、その番組を見ていたらしく、翌日にはそいつの話題でクラスは持ち切りになり、その後しばらくは僕達の話題のナンバーワンだったと思う。
はや
さらに、不思議なもの、訳のわからないものだったそいつを使った言葉遊びも流行った。
”全然ケサランパサランや”
意味がわからない時にこの言葉を使ったのはおそらく母親だったのだと思う。
そうそいつは”ケサランパサラン”と呼ばれていた。

 朝午前八時三十八分、角のコンビニエンスストアを横目に見ながらそこを曲がると、僕の通うS大が見えてくる。冬のさなかで吐く息が白い中を、僕はいつも自転車で通学する事にしている。家からの距離を考えると、昨今の学生ならばまずバス通学を選ぶであろう距離であるが、
「バス賃がもったいない。」
という貧乏根性丸出しの言葉一つで、その可能性を一蹴してしまった僕は、毎朝少々古ぼけてキコキコと軋む音をたてながら走る自転車を漕いでいる。
(そろそろ油を差さなきゃいけないな。)
そんな事をぼんやりと考えながら正門をくぐると、左に曲がってすぐの所にある自転車置き場に駐輪する。はずした鍵を投げ上げては手で受け止めして、弄びながら学部の研究室へ向かう。
(今日は午前中だけだったな。)
そう思うと早く帰れるという思いで心が軽くなる。こんな日だと授業なんぞサボって、(特に今日の様に天気の良い日だと)どこかに遊びに行く(彼又は彼女と一緒に)という学生の多い近頃では、一般に学生というのは暇な職業だと思われがちである。が、実際はというとそうでない学生もいる訳で、かく言う僕も後者の”貧乏暇なし”を絵に描いて額縁をつけた様な男だと、よく悪友達に言われる。という訳だから世の学生諸君、あまり悪い噂をたてない様にお願いしたい。

 研究室に顔を出し、”帰宅”という欄にかかっていた自分の名札を”講義中”の欄に移し、教授はまだ来ていない時間のはずなので、卒論のために徹夜を敢行したらしい勇敢な四回生に、
「おはよう」
とあいさつをすると、そのまま講義室に向かった。今日の一コマ目は”遺伝子学”のはずだ。
ロッカーから”遺伝子学”の教科書を取り出すと、研究室の真向かいにある講義室へと足を運ぶ。するとすでに悪友が二人程姿を見せていた。どうやら僕を待っていたらしい。
「よお京二、お前まだ例の装置造ってんだって?」
「そうそう、良美嬢『最近全然自分の方を向いてくれないの』って怒ってたぞ。」
良美というのは僕が現在つきあっている娘で、活発だがその分口もうるさいという女性だった。フルネームは安岡良美といい、目の前にいる二人の悪友、尾崎信彦・山本秀勝の両人に言わせれば、
「お前にゃもったいないぐらいの美人」
なのだそうだ。
だが、良美本人はというと、その様な意識は別に持っておらず、むしろ、そんな彼女のさっぱりとした性格が僕は好きだった。
何かに対してこだわる訳でもなく、自分の長所を自慢したりはせず、終始控え目でいてそれで別の意味で活発な娘、そんな彼女は陰気な僕となぜか気が合い、僕も彼女もお互いに、相手のそんな所が好きなのだと言う。確かに周囲の人間にしてみれば僕ら二人は何かと目立ち、奇異な人間に映るらしい。

 一コマ終了のチャイムが鳴った。僕も隣りの講義室で受けていた悪友二人もこれからそれぞれの研究室においてゼミとなる。僕ら三人はS大の大学院生で、共に大学いや、高校からのくされ縁だった。元々はと言えば理系志望のコンピューター好きが集まってワイワイやっていたのが最初だから、全員が根暗の様に思われがちだが別段そういう訳でもないとは言え、妙な情熱の持ち主であった事は間違いないので、院まで不思議と縁があった訳だが、僕は理学部生物学科で遺伝子研究室に入り、あとの二人は工学部電子工学科であった。他にも――不幸な事に――高校からのくされ縁の者は数人いるのだが、今日は”サボった”らしい。もっとも、ゼミにはいくらなんでも出席しているだろうが。
悪友と後程一緒に昼飯を食う約束をしてから別れると、我が愛すべき教官、赤沢平八郎教授はすでに研究室にいらっしゃっていた。大変貴重な昭和元年生まれにして、頑固・厳格・質素という戦前教育の影響から来る三本柱に、度を超した現実主義というもう一本の柱を加えて、我々は”元帥殿の性格四天王”と呼びならわしている。ちなみに元帥というのは「東郷平八郎旧帝国海軍元帥」と同じ名前であることに由来する。過去「元帥殿」の単位を取得するために涙を流した学生の数は数知れぬと言われる。
「おい川田、お前まだ例の機械を造っているのか?」
「はい。」
我が元帥殿は僕の造っている物に大変興味を持っていた。もちろん彼は現実主義者であるため、その興味は悪い方向にではあったが。
「いいか川田、お前の言ってるそんな機械は絶対にできっこない。少なくとも現在の技術ではな。悪い事は言わん、そんな機械の事なんぞすっぱり忘れて専門の研究に打ち込め。その方がお前の能力を生かせること確実だ、な。」
「ありがとうございます。」
僕は心からそう思い、その思いをそのまま言葉とした。だが、僕の考えはいかなる言葉でも変えることが出来なかった。
「ありがとうございます。でも折角ここまでやってきたんです。あと少しだけ頑張らせて下さい、もうすぐ完成するんです。」
しばらくの間、教授と睨み合った。そして後、おもむろに溜め息をついた。
「そうか、仕方がない。それまで言うならもう少しだけ待ってやろう。だが、自分に納得がいったら研究に打ち込むんだぞ。もちろん今まで以上にだ。」
(すみません、先生)
僕は教授の不機嫌な声を聞きながらそう思っていた。教授に対して悪い事をしているのは十分わかっていた。何しろ専門の研究そっちのけで、学校で暇な時には工学部の講義を聴き、研究室へおじゃまし、家に帰れば一日中飽きもせず装置を組み立てているのだから。
(デートの一回もまともにしてないもんな。これじゃ良美も怒る訳だ。)
横では赤沢教授が、
「ゼミを始めるぞ。」
の一声と共に、今日の発表者の確認と参考資料の配布を始めた。その面倒見のいい教授を尻目にして研究室を後にした。しかし、必修のゼミを見逃してくれるのは、僕の書くレポートが他学生のそれよりも群を抜いて評価される程のものだからである。もっとも、自分はそうは思ってはいないが。
そう、一度たりとも自慢した事は過去なかった。そえが一体どうしたというのだ?確かに僕のレポートは素晴らしいという批評を受けている。成程そうかも知れないが、単に消費活動であるにすぎず、別に何かを生産して社会の役に立っている訳ではない。あんなレポート一つよりも、町工場で造られるソケット一個の方がよほど値打ちがあるだろう。
そんな僕の考え方を”素直じゃない”と言う者が多い。では尋ねるが”素直”とは一体何なのか?いや、やめておこう。こんな事を議論しても得るものはないであろうから。

 午前中を工学部の研究室を荒らしまわって過ごし、昼御飯を近くの喫茶店で終えて、電気関係の店でICチップなどをいくらか買った後真っ直ぐに家へ帰り、”研究室”と名付けた一室
で仕事の続きを始めた。
まず昨日までに配線の終わっている場所を確認し、配線途中及びこれから配線を接続する箇所を確認する。その後、白衣を着た上で帽子とマスクをつけ、ピンセットで作業を始める。最初のうちは慣れず、さらに一番の難関がすぐに控えていて大変だったが、今ではもう面倒な所は全く残っておらず、目をつぶってでも出来る程のものしかない。とはいえ、細かい作業であることには違いはないため、大体三十分に一回は目を休めないといけない。そして目を休め終わったらもう一度作業に取りかかる。
こうして、たった一人の肉親である妹―早苗―が作ってくれる晩御飯と風呂に入る時間を除いては、日によっては夜中三時ぐらいまで作業を続ける。そしてその間に学校へ行き、数本のレポートを書きあげる。それがもうここ数年の日課となっていた。
僕が作っているのは高性能のコンピューターだった。これまでにない大容量のメモリー、少々複雑な問題でも瞬間的に答えを出せるぐらいの演算速度、その他大きな解析能力など、数多くのものを僕はこいつに要求していた。従って従来の方式ではスピードが全くお話にもならない程遅く、仕方なしに一から全てを設計する事になってしまった。
作り始めた当初はそれでもこんな事になるとは露とも思わず、お陰でこの事に気付くまでに高価なコンピューターを数台無駄にしてしまった。今さらながらに勿体ない事をしたと思う。
一旦手を休めて瞼を閉じて目を押さえる。しばらくの間そのままの姿勢でじっとしておいて、目の疲れがとれたところで机の引き出しを開けた。いくつか箱が入っているその中から少し大きめのものを取り出すと蓋を開ける。すると中に白くフワフワしたものが三つ程入っていた。
「おや、また一匹増えたな。」
僕は一人ごちた。そう、それは正に”ケサランパサラン”だった。
僕がこいつを見つけたのは一年程前の事である。ある日タンスを整理していた時、端っこの方でシャツとシャツの間にはさまっていたそいつを偶然見つけたのである。最初は何かわからず、一度はゴミ箱に捨てようとしたのだが、その何かしら心細そうなものが一瞬何かを囁きかけて来た様な気がしてずっと大切にしまっておいたのである。もっともしばらくの間、そのまま忘れてしまっていたが。
次に見たのは6ヶ月後だった。この時もほんのたまたま開けてみたところを見つけた訳で、大きいのが一つに、子どもの様に小さいのが一つ。この時僕は昔テレビで見た”ケサランパサラン”という生き物を思い出した。
「あんなものは嘘っぱちだ。」
つい先日まで事あるごとにそう言っていたそいつが僕の目の前に出現したのである。
しばらく呆然と立ち尽くしていたのを思い出し、自分でもつくづく情けない事をしたものだと、くすっと笑った。今では毎日の様にそいつの姿を見ることにしているが、どうやらこいつは僕がしばらく見ていないうちに仲間を増やすらしい。
「お前な、たまには俺の目の前で分裂しような。ちょっと愛想が足りないぞ。」
少し笑いながらそう言うと、白いフワフワを手の平にのせて弄ぶように転がしてみると、やわらかくて気持ちの良い手ざわりが手の上に広がった。
僕は再びそいつを箱に戻し、机の上に置くと、作業を開始した。今日のノルマを果たすまではあとまだ5時間ぐらいはかかる計算になっていた。

 「ねえ、少しは時間をあけてくれてもいいんじゃない?あまりにも冷たすぎるわよ。」
良美はそう言った。月に一度のデート、映画を見終えてから入った喫茶店である。
「そうかな、これでも結構気を使っているつもりなんだけど。」
「よく言うわ。電話をかけても『今は忙しいから後で』の一言でしょう。学校でだって一緒に帰ったことなんてここしばらくないし、大体今日のデートだってしぶしぶだったじゃない。いくら忙しくてもね、女の子にはもう少し気を使ってもきっとバチは当たらないと思うわよ。」
「成程ね・・・・」
彼女は文句の多い女性ではなかったが、ここしばらくの僕の行動にはいい加減腹が立ってきたらしい。ここまで言わせてしまった事を反省しながらも、今日帰ってから行う作業の手順が気になるのは、仕事が佳境に入り、もうすぐ完成するという意気込みからである事に間違いないだろう。
「悪い事をしているとは思っているんだ。でもね、もうすぐ完成するんだ。もう少しだけ、ほんのもう少しだけ待ってくれないかな?」
「もうここ二ヶ月の間ずっと同じ事をきいているわ。そんなにそれ、大切なものなの?」
「うん・・・」
気まずい沈黙が二人の周囲を取り囲んだ。長い間わがままを僕が言ってきた故の沈黙なので、僕の方から打ち破らなければならないのだが、いざとなるとね・・・・
(人間てのは全くうまく出来てるよな。)
「まあいいわ、今日のところは許してあげる。でもね、来月からは駄目よ。もうその頃には完成してるとは思うけど、いい加減こっちを振り向いてくれなきゃ愛想尽かしちゃうからね。」
「ああ、もちろんだよ。愛想尽かされちゃ、こっちもかなわない。」
肩をすくめておどけた素振りで言うと、この言葉が意外とうけた。さほど広くはない喫茶店の中に、二人のプッと吹き出した笑い声が響いた。寛大な彼女に感謝!

 「お兄ちゃん、晩御飯出来たわよ!」
コンコンというノックの音に続いて聞こえた早苗の声に、
「今行く。」
という返事を返す。
五年前に両親を亡くしてからというもの、家事一切は皆妹が取りしきっていた。とは言っても妹も今や大学生、講義もあるため、家事は講義のない日か休講になった時に行うこととなる。そういう意味においては、何もしていない僕は非常に情けない限りだが、そのお陰で何から何までやらされる妹は将来いい嫁になれそうである。
僕はうきうきした気分で食事をしている。今まではいつできあがるかわからない装置のあがり具合にやきもきさせられたものだったが、それも今日で終わりだ。遂に完成だ!
早苗もそうやらこの気配を僕の感じから受け取ったようだった。
「良かったわね、兄さん。」
その一言を始めとして今日大学であったこと、最近の愉快な出来事を面白おかしくアレンジして聞かせてくれた。僕もその話にずっと聞き入っていた。ここしばらく世の中の動きに対してかなり鈍感になっていた僕には、そのうちの大半が耳新しいものだった。
(そうか、レーガンも遂に退陣か・・・)
(内閣の汚職?そんなのあったのか・・・)
(etc、etc・・・)
政治的な話題の他にも楽しい話もあり、久し振りに心の底から笑う事が出来た。こういったなごやかな雰囲気の食事は数ヶ月振りだったろう。

 「なあケサパサ、遂に完成したぞ。僕はうれしいよ。そうか、お前も喜んでくれるのか、じゃあ一緒にこいつの働き振りを見ような。」
ケサランパサランのフワフワした毛の揺れ具合を喜んでくれているものと解釈して僕は言った。
ところがそこで一つ、ふと思いついた事があった。
(一、二、・・・おや、二匹しかいない。前に見た時は確か三匹いたはずだ。もう一匹はどこへ行った?)
僕はうろたえて、その付近を探しまわった。机の上をひっかきまわし、机を始めとする家具類の下をかがみ込んではのぞき込み、挙げ句の果てには引き出しの中さえもひっかき回してみた。そんな事はかれこれ三十分も続けたろうか。とうとう残りの一匹は見つける事が出来なかった。
「仕方がないな。なあお前たち、あとで残りの仲間にもどんな風だったか教えてやれよ、な?」
そう言うと電源のスイッチをONにし、これも苦労の結晶のディスクをセットする。プレシグナルが出て来た時点で、前々から準備していた問題をキーボードを使って打ち込む。
しばらくするとカタッカタッという柱時計の振り子の様な作動音がし、それが止むと同時に答えが表示された。その結果はそのままプリンターで打ち出される。
こんな事を十回程も繰り返しただろうか。もちろん段階を追って徐々に複雑な問題に変えていき、少なくとも今までのところは、それをパーフェクトにこなして来ている。まずは申し分ない処理演算能力を持っているという事が出来るだろう。
(頼もしい奴だ。こいつならいけるだろうな、十分に。)
そんな期待とも自信とも言えるものが湧いてきた。残る問題はあと一問だけ。こいつの解が得られれば、世界中を
”アッ!”
と言わせる事が出来るはずだ。
それは僕自身が考え出したもので、自分では”進化方程式”と呼びならわしていた。こいつをコンピューターに見つけさせ、特殊解を、いやゆくゆくは一般解を求めさせてやろうというものだった。
この方程式を使えば生物のこれからの進化過程の推測を示す事が出来るというしろ物だった。
もちろん教授は反対していた。”その様な解が存在するとは到底思えない”というのがその主張の根拠だった。だが僕はその考えにとりつかれていたのだろう。もしこいつが発表されれば生物学界だけでなく、世界中に大きな波紋を投げかけ、なおかつこいつの恩恵で遺伝子工学もかなりの発展を遂げ、おそらくは難病といわれていた病気のワクチンも続々と完成するだろうと見込んでいた。
かと言って地位や名誉を欲する気持ちはあまりない。これは嘘偽りのない気持ちである。皆が幸せに、生活に困る人がなくなればいい、そう思っての事だけだ。例えばボランティア活動をしている人々が今大勢いるが、彼らは地位や名誉とは言わないまでも、何かそういう、人間の俗物的な面の物を手に入れるためにやっているだろうか?否、そんなもののためにではないはずだ。その力の源となっているのは他人を思いやるいたわりの心であると思う。もしかしたらキリストもそんな人物の一人だったのかも知れない。
「なあケサパサ、俺の成功を一緒に祈ってくれ。」
そんな事を言いながら、コンピューターにデータを次々と打ち込んでゆく。現在までに解析されている遺伝子構造にその他のものを系統立てたものである。その生物の特徴なんていうのもデータの中には入っている。もっとも個体差を消すために一種当たり複数の個体分を打ち込むので相当なデータ量となる。並のコンピューターなら一発でメモリーがパンクするであろうその量を、しかしこいつは全て順調に受け入れて記録していっている。
やがてデータの打ち込みが終了した。すでに夜は明けていて、午前六時を三分程経過していた。どうやらデータの打ち込み作業に没頭している間に夜が明けていたらしい。心なしかケサランパサランも眠たそうに見える。
「おいケサパサ、起きろ!これからこいつを動かすぞ。」
ケサランパサランが身震いした様な気がした。もちろん目の錯覚だという事はわかっているが、何かしらこいつには人間臭いところがあり、僕は生き物の様にかわいく見えて、仕方ないのだ。
だが今日のケサランパサランは何かに怯えているように思えてならなかった。それが何に対してかはわからなかったが。そんなそいつの姿を見ていると、僕の方も何かしら訳のわからない不安にかられた。僕の頭の中に”崩壊するコンピューター”という最悪の事態が浮かんだ。
(いや、そんな事があるものか。こいつは僕が3年かけて造ったんだ、そんな簡単におかしくなるものじゃあない。)
そう自分に言いきかせると、演算開始の命令をキーボードで入力した。
カタッカタッカタッ・・・
今までと同じ様に小さな作動音が伝わってくる。しかし今度は今までの様にすぐに答えは出て来なかった。データの量や計算の困難さを考えると当然といえば当然な事だ。こいつは今、過去に誰一人としてやったことのない大規模な問題の解を求めているのだ。そして当面の間は、この問題を解かせるために作ったコンピューターなのだ。
五分経ち、十分経ち、やがて三十分経った。間もなく7時になる。そうすれば妹が起き出して朝食を作り出すだろう。そんな事を頭のすみで考えながら見ていたのだが、そのうちに何やら妙な臭いがしてきた。最初は気にならなかったが、しばらくしてその正体に思い至った。
(ビニールコードの溶ける臭いだ!)
僕は大急ぎで演算を中止させ、一時待機を入力して後、一気に本体のフタを開けて配線を調べてみた。
「あった!」
そこはどうしても光ファイバーを使う事の出来ない場所だった。故に、仕方なしに一般の銅線を何重にもして使っていたのだが、どうやら過負荷に耐えられず、オーバーヒートを起こしたらしい。
「ん?」
ふと何かが気になってよくのぞき込んでみると、そこには少し毛のコゲたケサランパサランが一匹いた。振り返って箱の中を見ていると先程の二匹はまだそこにいる。ということは・・・・・・・
「なんだお前、そんなところにいたのか。」
ホッとしてその一言だけを口に出すと、一旦コンピューターの電源をOFFにし、そいつを指でつまんで引っぱり出した。
「心配かけたらだめだろう。しかしまあ、一体どうやってこの中にもぐり込んだんだ?」
僕はそう言ってケサランパサランをつつくと、まるでダルマの様に一度向こう側に傾いたかと思うと、次はこちらに身をすり寄せてきた。
「プフッ、やっぱりお前達はかわいいなあ。そらっ、仲間のいる所へお帰り。もう勝手に転げ出ちゃダメだぞ。」
箱の中をころころと転がるそいつの姿は滑稽でもあり、しばしそいつらに見とれていたが、重要な問題を無視する訳にはいかなかった。
「さてと、銅線では間に合わなかったか。一体何を伝導体に使えばいいのやら。」
階下から妹の呼ぶ声が聞こえた。どうやら朝食が出来たらしい。

 翌日、研究室で待っていたのは教授の辛辣な一言だった。
「それ見た事か。だからそんなものは作れんと言っただろうが。人の忠告の意味をもっと深く考えないからそんな事になるんだ。」
今日の教授は機嫌が悪かった様だ。研究室の人間は誰一人として近づこうとはしない。皆が皆、目をそらしたり、わざと知らんぷりをしたり、さも忙しそうに振る舞ったりして、関わり合いにならない様にとしている。
「どうだ、これで目が覚めただろう。だからだ、目が覚めた今の時点で自分の本職へ戻れ。」
「いいえ、教授、お言葉ですが僕はまだ失敗してはいません。あの部分、あの部分さえ何か別の物に取り換えさえすればいいんです。教授、何か伝導率のいい物質を知りませんか?」
その言葉を聞いた教授の顔が真っ赤になり、その後続いて青く、いやどす黒くなるのを僕は目撃した。
(テレビアニメでよくやってるあれは、嘘じゃないんだな。)
そういう妙な所に感心していると、ついに堪忍袋の緒が切れたのか、いきなり大声で怒鳴り始めた。
「いい加減にしろ川田!伝導物質だと?そんなものこの儂が知っている訳がなかろう!いいか、お前は一体何の研究者だ?」
「生物の遺伝子です。」
僕はやわらかに答えてみせた。
「そう、その通りだ。生物の研究者なんだよ、お前も、そしてこの儂もだ。それが何故コンピューターを作らにゃならん?」
「それは・・・・・」
僕は唇をかんで口ごもった。どうも僕の方が旗色が悪い。
「お前の言う”汎進化方程式”とかいうもののためか?前にも言ったはずだ、そんなものは存在しない。いや、存在するはずがない。理由は言わなくてもわかるだろう。そろそろ本当に目を覚ませ。」
「しかし・・・」
「しかしもへったくれもない。大体お前の好き勝手を認めているのは何故だと思う?お前の書く論文があまりにも優秀だからだ。しかしな川田、それも度を越せばそれまでだ。ここで白黒をはっきりさせろ。研究室に戻るか否かだ。もし戻ればそれでよし、そうでなければこちらにも考えがある。さあ、どっちだ!」
僕と教授はしばし睨み合った。教授の顔をじっと見ていて気の付いた事だが、怒りの中にすでにあきらめの心が見え隠れしていた。おそらく僕の返事の内容には、もう見当がついているのだろう。
「・・・・・残念ですが教授、僕はあきらめ切れません。許して下さい。」
「・・・・・・・・・・」
教授は黙っていた。しばしの間僕を睨みつけた後、気がすんだという風にがっくりと肩を落として疲れた様にこう言った。
「川田、本当に、お前本当に後悔しないんだな?それでいいんだな?」
「・・・はい。」
僕は少しためらってからそう答えた。教授の姿を見て心が揺らいだからであるが、この返事を聴いた教授は怒鳴った。
「そうか、残念だがやむを得まい。川田京二、お前は破門だ!卒業だけはさせてやるが、その後は二度とここへは顔を出すな!いいな、川田!」
だがその声にはもう先刻までの迫力はなかった。教授はそのまま顔を背けて僕に背を向けたが、僕はその姿に気の毒な感じを覚えた。
「失礼しました。」
その声と共に退室した僕はすでに教授に言った言葉などすでに忘れて後悔を始めていた。その時の教授の顔には――おそらくは僕の才能を惜しんでであろうが――涙がにじんでいた。僕の才能を一番認めていたが故に破門せざるを得なかったその気持ちを思んばかると少し心が重かった。

 「こいつもう治ってやがる!」
家に帰った僕は心の底から真剣に驚いた。あれだけ毛のこげていたケサランパサランが、もう元通りに戻っているのを発見したのだ。
「昨日の今日でよくもまあ。」
僕の驚きは時間と共に感嘆の思いにとってかわり、そして大きな興味へと発展した。
(こいつ、一体どんな遺伝子構造を持ってるんだろう?)
僕の疑問は生物をやっていないものでもきっと持つと思う。たった一日程でケガの治る人間を、あなたは見た事がありますか?人間でなくとも動物でも良いのですが。
つまりはこうである。人間やその他の動物、植物にもそんな種族はまだ発見されていないはずだ。マンガの世界でを除けばではあるが・・・・・。
(こいつの遺伝子構造を解析する。)
この事は僕の心を大きく惹きつけた。何かしら、こいつを知る事が、僕の夢に大きく近づくための道しるべになる様な気がしたのだ。
僕は以前よりも一層研究に打ち込んだ。ただでさえ見えづらかった周囲の出来事がほぼ完全にみえなくなった。今の僕はもう”研究の亡者”という形容が一番ふさわしく思える様になっていた。あのやさしい早苗までが僕を恐れているかの様だった。
何度か良美から電話がかかって来ていたのは知っていたが、忙しいという理由だけで取りあわなかった。そしてそんなある日、ついに彼女は怒りの電話をかけて来た。だが、その日の僕はやはり何も聞いてはいなかったのだ。
「ちょっと、聴いてるの?」
「え?ああ、もちろんだよ。」
「いい、次の日曜日は絶対に家に来るのよ!わかった?」
「ああ、わかった。で、次の日曜日って何があるんだ?」
一瞬沈黙が支配した。しかし受話器越しに伝わってくる凶悪な雰囲気からして、彼女が相当怒っているであろう事が伺えた。
「あなたね、次の日曜は私の誕生日でしょ!バースディよ、バースデー!恋人の誕生日も忘れてしまってるの!」
そう言われてみればそうかも知れなかった。だが、曜日はおろか、日付けすらすでにわからなくなっている僕にはそんな話はピンと来ず、ただ単に何も仕事をせずに過ごしている今のこの時間を惜しむ気持ちしかなかった。
「そう言われてみればそうだったかな?」
不用意にも僕はそう言ってしまった。それが失敗だったのは、ほんの〇・一秒後にわかった。「あなたって人はそんな薄情な・・・・恋人の誕生日も忘れる程薄情なんだったのね。もういいわ、あなたなんか知らない!これでお別れよ、さようなら!」

 気が付いた時には、切れた受話器を耳を押しあてたまま、ボーッとつっ立っていた。何も覚えていないその状態で一体何分間つっ立っていたのだろうか?僕はそれを本体の上にのろのろと置くと、そのままのろのろとした状態のまま階段を上り始めた。
最近二つ目の大きな打撃だった。この二つは意識してはいなかったが、かなり効いた。頭の中がボンヤリしていて、何も考える事が出来ない。考えようとする気力さえ失っていた。
(教授には破門され、良美には離縁され、一体このしばらくの間僕は何をしていたのだろう?)
ありとあらゆる神々を呪いたかった。もしいたらの話だが。
部屋に入ってドアを閉め、ディスプレイに目をやると、ケサランパサランの遺伝子構造解析結果が現れていた。それがもし目に映らなければ、本当に大声で神々に対して呪いの言葉を吐いていたかも知れない。
「こ、これは・・・・」
僕は絶句した。それはとんでもない結果を示していた。
「こいつは・・・地球上のいかなる生物の遺伝子とも異なっている。バカな、それじゃあ全く違った発生をし、違った進化をしたというのか?それとも地球外から持ち込まれたのか?」
そしてもう一つ、恐ろしい事を示す数行の文をディスプレイの中に見いだす事が出来た。
「この構造はもしかしたら伝導体になり得るんじゃないか?それじゃあ、こいつは自然が生みだしたまさしく天然の伝導体・・・」
僕は恐ろしさの中に一つの希望を見いだした。
(もしかしたらこいつをコンピューターの伝導体として使えるんじゃなかろうか?)
僕はチラッとケサランパサランを見やった。そのかわいらしいものは、そんな思いなど露知らずという風に、ぐっすりと眠っているみたいに思えた。それは平和な光景だった。

 二回目の試験を行う準備が出来た。今回はすべての配線、基盤やLSI類をすべてチェックし直し、前回銅線でまかなっていた部分をケサランパサランに置き換えた。
あの日から数えてわずかに4日。最近の出来事を忘れようとして全てをかけて、全てをつぎ込んで完成させたものだった。
「もう後戻りはできないんだ。それにもうお前を除いては僕には何も残ってはいない。頼むぜ、相棒。」
僕は最後のチェックの時、ケサランパサランにそう言っていた。これ程の願いを込める事はもう一生ないだろう。
手順は前回と同じ手順を踏んで行う事にした。入力を終了したらすぐにディスプレイと並べて置いてあるモニターを見た。そこにはいろんな結線を施されたケサランパサランが映っていた。つまりはコンピューターの内部である。
今回は大丈夫だろうとは思っていたものの、やはり不安感はぬぐい切れず、内部に細工してカメラを仕込んでおいたのである。このカメラにはコンピューターとは別の配線を施し、決して故障が及ばない様にした。そのモニターに映る内部には今のところ別に異常は見つからない。

 最後の問題になった。前回ついに解く事の出来なかった問題”進化方程式”を求める問題である。
僕は念を入れて内部をチェックした。
”オーバーヒートはどこにもないか?”
”配線はうまく接続されているか?”
そして
”ケサランパサランに異常はないか?”
だがすべてに異常は見られなかった。
カタッカタッ
という作動音は異常なく続いており、心の中で全てがうまく行く様に祈り・・・・
コンピューターディスプレイ上には
「現在演算実行中」
の文字と時折途中経過を表示する。現在まではうまくいっている様だ。生物ごとに発生・進化を系統づくり、一通りすんだところで今度は過去に遡って、絶滅した生物達の遺伝子を組み合わせで表示、及びプリンターによって結果は打ち出される。それらの神は机の上に、いや部屋の中に床の上といわず椅子の上といわず紙溜まりをつくっている。

 プログラム実行開始後すでに半日、間もなく全ての系統樹が出来あがるはずだ。もし僕の理論が正しければ、進化方程式はあと一時間足らずで完成する。僕は興奮に胸が躍った。
(素晴らしい。このままなら大丈夫だ。演算能力は前回よりもあがっている。もうすぐだ、もうすぐ”解”が見つかるはずだ。そうすれば僕の理論が、理論の正しさが証明される。)
後に妹に聞いてみたところ、この時の僕は何かに取りつかれた様子で、恐ろしい形相をしていたらしい。それ程までに僕は陶酔しきっていた。
(まだか、まだか、いやもうすぐだ、もうすぐだ。)
はやる気持ちを押さえて、プリンターから流れ出すデータの量はいつまでたってもきりがない。もしかしたらそう思っただけかも知れないが、一体何回インクリボンを取り換えたかもう忘れてしまっていた。それでもまだ飽きる事なくデータははき出し続けられていた。もうまさしく”紙の洪水”の様相を呈していた。

 いつの間にやらプリンターが止まっていた。外もいつしか夜となり、サラリーマン達が帰路を急いでいる。不思議と空腹感は感じなかった。
「熱中もそこまでいくと病気だな。」
友人達は後にそう言って笑った。
コンピューターは最後の演算に入っている様だった。それもほんの数分で止まり、遂に結果が表示される様だった。僕は思わず叫ばずにはいられなかった。
「結果は?解は見つかったんだろう?早く出せ!早く表示するんだ!」
次の瞬間、ディスプレイとモニターが同時に光った。いや、光っているのはモニターだけで、ディスプレイはその光のために見えないだけだ。
光っているのはケサランパサランだった。そいつが今、部屋中を照らし出すぐらいのまばゆい光を放っていた。何かを怒っているかの様だ。
コンピューターがカチッという音をたて、プリンターがほんの数行、動く音が聞こえた。どうやらこの異変の中でも求める答えをはき出したらしい。
やがて光がおさまった。恐る恐る目を開いてみると、コンピューターは止まっていた。ディスプレイの表示も消えている。見ると電源自体は切れていない様だから、どこかおかしくなったのかも知れない。
あれほどの光を放っていたケサランパサランは消滅していた。が、プリンターの文字は残されていた。手にして読んでみる。するとこうあった。
「自らの力で求めよ、我は全てを知り、知らない方が良かったと思った。知らない方が良い方の部類だろう。
我は姿を消す。君は君のための努力をしなさい。」

 後には何も残らなかった。手の平を広げてじっと眺めやる。
「ふう。」
結局は何だったんだろうか?もはや何が何でも良かった。僕には何も残らなかった。でも一つだけわかった事があった。
「そう、全ては終わったんだ。僕はこれから全てを一からやり直さなければならない。」

 廊下で妹が晩御飯が出来たことを告げていた。